西暦 | 年令 | ドヴォルザークの生涯 | 社会・文化・音楽 |
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1841 | 0歳 | ●9月8日、プラハ(クラルビ)近郊のネラホゼヴェスに、宿屋(居酒屋)兼肉屋を 営むフランティシェク・ドヴォルザークの息子として生まれる。 |
天保の改革 |
1847 | 6歳 | ●9月、村の小学校に入学。師ヨゼフ・シュピッツからヴァイオリンと歌の指導を受ける。 | メンデルスゾーン没 38歳 |
1849 | 8歳 | ●村の教会の少年聖歌隊員となる。 |
ショパン没 39歳 |
1850 | 9歳 | ●父が指揮するアマチュア楽団でヴァイオリンを演奏する。 さらに、フェスティバルや聖地詣においてヴァイオリンを演奏。 ●このころ、ネラホゼベスに鉄道が開通し、蒸気機関車に夢中になる。 |
ワグナー「ローエングリーン」 リスト「交響詩前奏曲」 |
1851 | 10歳 | ●ヴァイオリン演奏で、著しい進歩を遂げる。 | ヴェルディ「リゴレット」 |
1852 | 11歳 | ●教会でのヴァイオリン演奏や歌唱により、早熟した音楽の才能を開花させる。 | ミレー:オフィーリア |
1853 | 12歳 | ●7月、J.シュピッツのもとでの学校教育を修了し、その年の暮れ、隣町のズロニツェに 送られ伯父の世話になる。 ●ドイツ系の実業補習学校(実科学校)に進学し、ドイツ語教師で教会のオルガニストを兼務する校長のリーマンに師事してヴァイオリン、ピアノ、オルガン、和声楽、通奏低音演 奏などの授業を受けるとともに、音楽理論の基礎を学ぶ。 |
ヴェルディ「椿姫」 リスト「ピアノ・ソナタロ短調」初演 |
1854 | 13歳 | ●ズロニツェで肉屋としての修業を続ける。職人検定審査に合格。 | 日米和親条約 ワグナー「ニューベルングの指輪」完成 |
1855 | 14歳 | ●両親がズロニツェに移転し、そこで飲食店を営む。 | 日露和親条約 |
1856 | 15歳 | ●11月、北ボヘミア地方のチェスカー・カメニツェに赴き、市私立学校でドイツ語を学ぶ かたわらオルガニストのフランティシェク・ハンケからオルガンと音楽理論を学ぶ。 (貧しい生活ゆえ、ドヴォルザークにこれ以上教育を続けさせることが困難となった父親は肉屋を手伝うようチェスカー・カメニツェ からドヴォルザークを呼び戻す。A.リーマンは、ドヴォルザークの将来を固く信じて、父を説得し再び彼に音楽の教育を施す)。 |
シューマン没46歳 フローベール「ボバリー夫人 パリ講和条約 |
1857 | 16歳 | ●7月、カメニツェにおける職業教育を修了。 ●9月末、プラハに赴き、10月1日にプラハ・オルガン学校に入学。 ●11月よりアプト指揮する「セント・チェチェーリア協会管弦楽団」でヴィオラを演奏。 ●ヨゼフ・フェルステルにオルガンを、フランティシェク・ブラジェックに理論を、 さらに、ヨゼフ・ズボナシュに師事して声楽を学ぶ。 |
グリンカ没 52歳 ボードレール:悪の華 |
1858 | 17歳 | ●父の商売がかたむき、仕送りとだえる。そのため、小さな楽団でアルバイトを始める。 ●セント・チェチェーリア協会管弦楽団で演奏しているころ、初めてワグナーのオペラ を聴いて感銘を受ける。 ●オルガン学校の友人カレル・ベンドルからウィーン古典派作曲家の楽譜を借り、 ベートーベンやモーツァルトの音楽を親しむ。 |
ブラームス「ピアノ協奏曲第1番」作曲 日英通商条約締結 |
1859 | 18歳 | ●7月、プラハ・オルガン学校を優秀な成績で卒業。 カレル・コムザークが指揮するコムザーク楽団のヴィオラ奏者になり、ワルツやポルカ を演奏する一方、楽団のために編曲もする。このころから作曲を始める。 オルガン曲の習作「前奏曲とフーガ」を作曲 ●いとこの家を出て、同じプラハ市内にある叔母の家に引っ越す。 |
グノー「ファウスト」 ダーウィーン:種の起源 |
1860 | 19歳 | ●収入が少ないため、音楽教師としての仕事で収入の増大を図る。 | リンカーン大統領 |
1861 | 20歳 | ●作曲家としてはまだ無名で、少数の友人だけが彼の創作活動を承認。 ●6月、作品番号を付した最初の作品「弦楽五重奏曲イ短調(Op.1)」を作曲する。 |
スメタナ:プラハに定住 アメリカ南北戦争勃発 |
1862 | 21歳 | ●3月、最初の弦楽四重奏曲である「弦楽四重奏曲第1番イ長調(Op.2)」を作曲。 ●11月18日、国民劇場仮劇場が開幕。コムザーク楽団が仮劇場の専属管弦楽団に なったため、引き続き楽団でヴィオラ奏者を務める。 ●劇場での演奏を通じて、ロッシーニやヴェルディのオペラになじむ。 |
ヴェルディ「運命の力」作曲 ユゴー:レ・ミゼラブル リンカーン奴隷解放宣言 |
1863 | 22歳 | ●2月、ワグナーの指揮する演奏会にヴィオラで参加。ワグナーの革命的なオペラに心酔。 ●7月、国際料理店博覧会のため、コムザーク管弦楽団とともにハンブルクを訪れる。 |
ビゼー「真珠とり」初演 トルストイ:戦争と平和 |
1864 | 23歳 | ●叔母の家を出て、モーリッツ・アンゲルらとアパートで共同生活をはじめる。 仕事のあいまに、アンゲルのピアノを使って作曲に熱中する。 |
マイアベーア没 72歳 フォスター没 37歳 |
1865 | 24歳 | ●3月、「交響曲第1番(ズロニツェの鐘)ハ短調」を作曲し、ドイツのコンクールに提出。 ●「交響曲第2番変ロ長調」を作曲、「チェロ協奏曲イ長調」を作曲、「バリトンのための 2つの歌曲」を作曲する。 ●フラホル合唱団の指揮者に就任したカレル・ベンドルとの友情を通してドヴォルザーク は 世界の優れた音楽に精通する機会を得た。 ●家で、チェルマーコヴァー姉妹にピアノを教え始める。 ヨセフィーナに恋をするが、 ヨセフィーナは、カウニツ伯爵と結婚。失恋の痛手を癒すため歌曲集「糸杉」を作曲し ベンドルに献呈する。 |
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」初演 リンカーン暗殺され、 ジョンソン就任 |
1866 | 25歳 | ●9月、スメタナ(42歳)が、国民劇場仮劇場の首席指揮者に任命される。 ドヴォルザークは、同劇場でなおもヴィオラを演奏。スメタナのオペラ「売られた花嫁」 の初演で、ヴィオラを演奏。民族色豊かなオペラに刺激される。 |
チャイコフスキー:モスクワ音楽院で教鞭をとる。 |
1867 | 26歳 | ●スメタナの影響。1月から2月にかけて小管弦楽曲「7つのインテルメッゾ」を作曲。 | ムソルグスキー「はげやまの一夜」完成 |
1869 | 28歳 | ●作品番号のない「弦楽四重奏曲第2番変ロ長調」と「同3番ニ長調」を作曲したとされる。 | ベルリオーズ没 65歳 |
1870 | 29歳 | ●10月、最初の悲劇的オペラ「アルフレート」を創作。 その後、同じく作品番号を付さない「弦楽四重奏曲第4番ホ短調」を作曲。 |
ワグナー「ジークフリート牧歌」 ドリーブ「コッペリア」 |
1871 | 30歳 | ●仮劇場のオーケストラの職を辞し、個人レッスンで生計を立て、作曲に時間をあてる。 ●コミックオペラ「王様と炭焼き」を作曲したが、演奏が難しいという苦情をうける。 エリシュカ・クラースノホルスカーの詞にもとづく2つのバラード「みなしご(Op.5) および「まんねんろう」を作曲する。 ●12月、作曲家として初めて、音楽批評家ルデヴィート・プロハースカの舞踏会で歌曲 第5番「思い出」(E.クラースニホルスカーの詞にもとづく歌曲集より;第5番は 未完)が公開演奏される。 |
ヴェルディ「アイーダ」初演 サンサーンス等がパリに国民音楽協会を設立 仏が独と停戦条約を締結 |
1872 | 31歳 | ●V.ハーレクの詞による「讃歌:白山の後継者たち」(Op.30)、 セルビア民族詩による「4つの歌曲」(Op.6)、ドヴール・クラーロヴェーの写本からの 歌曲集「6つのボヘミアの歌」(Op.7)、ピアノ五重奏曲イ長調(Op.5)などを作曲。 ●スメタナが、ドヴォルザークのオペラ「王様と炭焼き」の序曲を演奏。 |
ビゼー「アルルの女」完成 墺・独・露が停戦条約締結 |
1873 | 32歳 | ●3月9日、愛国的カンタータ「讃歌-白山の後継者たち」の初演で作曲家として成功する。 3月20日、管弦楽曲「3つのノクターン」第2番「5月の夜」が公開演奏される。 ●11月17日、アンナ・チェルマーコヴァー(仮劇場合唱団のコントラルト歌手)と結婚。 花嫁の実家で新婚生活をはじめる。 ●ヴァイオリンと管弦楽のための「ロマンス ヘ短調」(Op.11)に着手する。 交響曲第3番変ホ長調(Op.10)、弦楽四重奏曲第5番ヘ短調(Op.9)、 弦楽四重奏曲第6番イ短調(Op.9)を作曲する。 ●プラハの音楽出版業者Eスタリーにより、ドヴォルザークの最初に印刷された作品「ドヴ ール・クラーロヴェーの写本からの歌曲集」(Op7)が「Op.17」として全曲出版される。 ●ヤン・アウグスト・スタリーの音楽学校でドヴォルザークは授業を開始する。 |
リムスキーコルサコフ「プスコフの乙女」作曲 マクスウェル:光と電磁波の関係 |
1874 | 33歳 | ●2月、聖アダルベルト教会のオルガニストに就任。 ●3月、交響曲第3番変ホ長調(Op.10)がスメタナの指揮によりプラハで初演される。 ●そのわずか2~3週間後、スメタナは完成されたばかりの交響曲第4番ニ短調(Op.13) 第3楽章の初演を指揮する。 ●4月、長男オタカールが生まれる。これを機に、新市街のナ・リブニーチクに引っ越す。 ●オペラ「王様と炭焼き」第2作(第1作と同じ台本で音楽だけをそっくり書き換える) および1幕の喜歌劇「頑固者たち」(Op.17)を作曲する。 ●11月24日、プラハの仮劇場で「王様と炭焼き」第2作が初演され大成功をおさめる。 ●他に、弦楽四重奏曲第7番イ短調(Op.16)を作曲。 ●7月、オーストリア国家奨学金にに初めて応募し、400グルデンの賞金を授与される。 |
ムソルグスキー「ボリスゴドゥノフ」初演 J.シュトラウス2世「こうもり」初演 ビゼー「カルメン」作曲 |
1875 | 34歳 | ●3月、「劇作家と作曲家の為のプラハ協会」の一員となる。 ●オーストリア国家奨学金に2回目の応募。審査員ブラームスとハンスリックから作品を 認められ、再び400グルデンの賞金を授与される。 ●弦楽五重奏曲ト長調(Op.77)、 ソプラノ(アルト)とテノールのための「モラヴィア二重唱曲集」(Op.20), ピアノ三重奏曲変ロ長調(Op.21)、オペラ「ヴァンダ」(Op.25)を創作、 「ノクターン ロ長調」(Op.40)、弦楽のためのセレナードホ長調(Op.22)、 ピアノ四重奏曲ニ長調(Op.23)、交響曲第5番ヘ長調(Op.76)、他を作曲する。 ●9月21日、長女ヨゼファが誕生するが、わずか3日後に亡くなる。 |
ビゼー没 36歳 グリーグ「ペールギュント」作曲 |
1876 | 35歳 | ●2月、弦楽五重奏曲ト長調(Op.77)で、「芸術協会」が募集した芸術家賞を獲得。 ●2月~5月、「スターバト・マーテル」(Op.58)のスケッチ ●4月17日、オペラ「ヴァンダ」の仮劇場初演。 ●第3回目のオーストリア国家奨学金に応募し、500グルデンの賞金を獲得。 ●ピアノ三重奏曲ト短調(Op.26)、弦楽四重奏曲第8番ホ長調(Op.80)、 「モラヴィア二重唱曲集」(Op.29/Op.32)、 ピアノ協奏曲ト短調(Op.33)、 一連のピアノ曲「2つのメヌエット変イ長調、ヘ長調」(Op.28)と 「ドゥムカ ニ短調」(Op.35)、他を作曲。 ●9月18日、娘ルージェナが誕生する。 |
ワグナー「指輪」全曲初演 ブラームス「交響曲第1番」 チャイコフスキー「白鳥の湖」 |
1877 | 36歳 | ●2月、聖アダルベルト教会のオルガニストの職を辞す。 ●2~7月、喜歌劇「いたずら百姓」(Op.37)を作曲。 ●オーケストラのための「交響的変奏曲」(Op.78)を作曲。 ●8月、娘ルージェナが誤って硫黄を口にし、急死。9月息子タカールも天然痘で死去。 ●秋、ナ・リブニーチク通りのアパートを引き払い、ジトナー通りに移る。 ●10月初旬~11月13日スケッチを終えていた「スターバトマーテル」(Op.58)を完成。 ●国家奨学金に「モラヴィア二重奏曲集」で4回目の応募。600グルデンの賞金を獲得。 ●11月末、ウィーンの批評家ハンスリックは、ブラームスが「モラヴィア二重奏曲集」を ベルリンの出版人ジムロックに推薦するつもりである旨をドヴォルザークに伝える。 ●12月、ウィーンを旅し、ハンスリックと始めて会う。 |
サンサーンス「サムソンとデリラ」初演 英領インド帝国成立 ロシアートルコ戦争勃発 |
1878 | 37歳 | ●1月、弦楽四重奏曲第9番をブラームスに献呈。その後、手紙を通じて親交を深める。 ●1月、「いたずら百姓」がプラハの仮劇場で初演される。 ●3つの「スラヴ狂詩曲集」(Op.45)を作曲。 ●4月、ヨゼフ・スルプの家で行われたスメタナの弦楽四重奏曲「我が生涯より」の私的 初演で、ドヴォルザークはヴィオラを演奏。 ●6月、娘のオティーリエが誕生。 ●10月、ベルリンの出版社ボーテ・ウント・ボックとの最初の交渉を勧める。 ●11月末、ベルリンに、出版人ジムロックを訪ねる。 ●第5回・6回の国家奨学金に応募し、さらに400グルデンの賞金を獲得。 ●ジムロックの依頼により、「スラヴ舞曲集」第1集(Op.46)をまずピアノ曲として作曲 後に管弦楽化。ジムロックによって同年ベルリンで出版される。 ●ほかに「管楽セレナード ニ長調」(Op.44)、「マリチコスチ(バガテル)」(Op.47) 「弦楽六重奏曲イ長調」(Op.48)を作曲。 ●12月以降、「スラヴ舞曲集」第1集は、評論家の賞賛の声が続出。楽譜の注文が殺到。 ドイツ、イギリス、アメリカの各コンサートで演奏される。 |
チャイコフスキー「交響曲第4番」初演 グローヴ:音楽・音楽家辞典を刊行 ロダン:「青銅時代」出展 |
1879 | 38歳 | ●「スラヴ舞曲」第1集が、ドイツとイギリスで大好評を博す。 ●3月、ライプツィヒへ旅行。ベルリンの楽譜印刷所を視察、 ベルリンで、ジムロックやボーテ・ウント・ボックと会う。 ●11月16日、3回目の上演のため、ウィーンを旅し、そこでハンス・リヒターと知り合う。 ●11月23日、ハンスリックの論文『アントニーン・ドヴォルザーク』が ウィーンの「新自由誌」に掲載される。 ●11月、芸術家協会音楽部門の議長に選出される。 ●合唱とオーケストラのための「詩編149」(Op.79)を作曲。弦楽四重奏曲第10番変ホ長 調(Op.51)を完成、J.ベッカーに献呈。オーケストラのための「チェコ組曲」(Op.39)、 ヴァイオリン協奏曲イ短調(Op.53)第1稿、10~11月、ピアノ曲集「影絵」(Op.8)作 |
チャイコフスキー「エウゲニーオネーギン」初演 ウィーン・フィルハーモニーの本拠地「楽友協会」大ホール完成 ドイツ~オーストリア同盟成立 |
1880 | 39歳 | ●1月、娘のアンナが誕生。 ●1月末、ベルリンに赴き、そこでヨアヒムとヴァイオリン協奏曲について協議する。 ●2月11日、ブラームスとヨアヒムはプラハで演奏を行い、ドヴォルザークを訪ねる。 ●4月~5月、ヴァイオリン協奏曲イ短調の第2稿を完成。 ●8月、ヴィースヴァーデンに音楽批評家ルーイス・エーレルトを訪問。 ●「ジプシーの歌」(Op.55)、ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調(Op.57)を作曲 ●10月、2か月足らずで、交響曲第6番ニ長調(Op.60)を作曲。 |
エジソン:電灯を考案 チュニジアをめぐってイタリア~フランス間緊張高まる |
1881 | 40歳 | ●3月、ピアノ連弾「伝説曲集」(Op.59)完成。 交響曲第6番が初演される。 ●5月、オペラ「ディミトリー」(Op.64)の第1作に着手。 ●6月11日、「国民劇場」の杮落しでスメタナの祝祭オペラ「リブシェ」が初演される。 ●8月、国民劇場が焼失(2年後に再建される)。 ●10月2日、喜歌劇「頑固者たち」がプラハの新チェコ劇場で初演される。 ●10月17日、娘のマグダレーナが誕生。 ●弦楽四重奏曲第11番ハ長調(Op.61)を作曲。ヨーゼフ・ヘルメスベルガーに献呈。 ●12月、付随音楽「ヨゼフ・カイエターン・ティル」に着手。 |
オッフェンバック「ホフマン物語」初演 ブラームス「大学祝典序曲」初演 ムソルグスキー没 60歳 ボストン交響楽団設立 |
1882 | 41歳 | ●オペラ「ディミトリー」(Op.64)第1作を完成。10月にプラハの新チェコ劇場で初演。 ●オペラ「いたずら百姓」をドレスデンで上演するためにドイツを訪問。 ●11月、改訂のヴァイオリン協奏曲をヨアヒムとともにベルリンで試演。 ●オペラ「ディミトリー」初演。 ●12月、母アンナが亡くなる。 |
ワグナー「パルジファル」初演 グラズノフ「交響曲第1番」完成 ヨアヒム没 60歳 |
1883 | 42歳 | ●1月初め、オペラ「いたずら百姓」上演のためハンブルクを訪問。 ●10月、ブラームスをウィーンに訪ねる。ブラームスは、自作の新しい交響曲第3番 ヘ長調(Op.90)から、その一部を演奏して聴かせる。 ●10月14日、ヴァイオリン協奏曲イ短調(Op.53)をプラハで初演。 ●11月18日、再建された国民劇場がスメタナの「リブシェ」で開幕。 ●12月、ブラームス交響曲第3番のウィーン初演に立ち会う。 ●ピアノ三重奏曲ヘ短調(Op.65)、「スケルツォ・カプリチォーソ」(Op.66)、 劇的序曲「フス教徒」(Op.67)、4手ピアノ曲集「シュマヴァの森より」(Op.68)作曲 ●翌年ロンドンの招待を受ける。 ●息子のアントニーン誕生 |
ワグナー没 69歳 ニーチェ「ツァラトゥストラはこう語った」執筆 マルクス没 65歳 |
1884 | 43歳 | ●ロンドンで自作の曲を指揮するため3月に最初のイギリス訪問を行う。 ロンドンで、自作の「スターバト・マーテル」を指揮して絶賛される。 ●6月、ロンドンのフィルハーモニー楽団名誉会員に選ばれる。 ●11月に開催されるウスター音楽祭のため、8月末に第2回目のイギリス訪問を行い、 「スターバト・マーテル」を指揮する。 2回におよぶイギリス訪問の間にヴィソカー(南ボヘミア地方)に、夏の別荘を購入。 また、翌年に開催予定のバーミンガム音楽祭の招待を受け、この為の新作を依頼される ●11月21日、ベルリンで序曲「フス教徒」とピアノ協奏曲ト短調(Op.33)を指揮。 ●11月27日、K.J.エルベンのテクストに基づく劇的カンタータ「幽霊の花嫁」(Op.69)を バーミンガム音楽祭のために作曲。12月13日には交響曲第7番ニ短調(Op.70)に着手。 ●12月初め、ハンス・フォン・ビューローがプラハのマイニンガー宮廷楽団を率いて プラハに滞在。ビューローが指揮する演奏会の終盤に、オーケストラがドヴォルザーク の序曲「わが家」(Op.62)を彼の指揮で演奏。 |
ドビュッシー「放蕩息子」でローマ大賞を受賞 スメタナ没 60歳 |
1885 | 44歳 | ●3月、交響曲第7番ニ長調(Op.70)が完成。 ●4月、第3回目のイギリス訪問を行い4月22日に第7番をロンドンで初演。大好評。 ●8月、第4回目のイギリス訪問を行う。ロンドンで演奏会を行い、 8月27日、バーミンガム音楽祭でカンタータ「幽霊の花嫁」を初演、指揮する。 ●9月17日、リーズ音楽祭の為にオラトリオ「聖ルドミラ」(Op.71)に着手する。 ●11月、オペラ「いたずら百姓」のウィーン宮廷歌劇場での上演は大きな成果得られず。 ●息子のオタカル誕生。 |
ブラームス「交響曲第4番」完成 ブルックナー「交響曲第8番」完成 ユーゴー没 83歳 |
1886 | 45歳 | ●5月、オラトリオ「聖ルドミラ」(Op.71)完成。 ●7月9日、ジムロックの勧めで「スラヴ舞曲集」第2集(Op.72)を完成。 ●9月、歌曲集「民謡調で」(Op.73)を完成。 ●10月、第5回目のイギリス訪問。15日にリーズ音楽祭で「聖ルドミラ」を初演。 |
サンサーンス「動物の謝肉祭」 リスト没 74歳 |
1887 | 46歳 | ●1月、2つの室内楽小品「三重奏曲ハ長調」(Op.74)、 「ロマンティック小品集」(Op.75)を作曲。 ●2~3月、オペラ「王様と炭焼き」第3作を完成。 ●3月、ヨゼフ・フラーフカから委託された「ミサ曲ニ長調」(Op.86)に着手。 ●8~10月、ピアノ五重奏曲イ長調」(Op.81)を作曲。 ●9月11日、ルジャニ城カペレ(宮廷礼拝堂)の落成式にて「ミサ曲ニ長調」の私的初演。 ●11月、オペラ「ジャコバン党員」(Op.84)第1作に着手。 ●12月4日、ウィーンで「交響的変奏曲」(Op.78)が上演され、大成功をおさめる。 |
ヴァルディ「オテロ」初演 シャブリエ「いやいやながらの 王様」作曲 ボロディン没 53歳 エッフェル塔完成 |
1888 | 47歳 | ●2月、プラハでの演奏会を指揮したチャイコフスキーと知り合う。 ●11月、オペラ「ジャコバン党員」第1作(Op.84)を完成する。 この仕事とならんで、「4つの歌曲」(Op.83)を完成。 ●12月、歌曲集「糸杉」の8曲を改訂し、「8つの愛の歌」(Op.83)とする。 ●娘のアロイジェ誕生。 |
フランク「交響曲ニ短調」 フォーレ「レクイエム」 リムスキーコルサコフ「シェラ ザード」 アルカン没 74歳 |
1889 | 48歳 | ●2月12日、オペラ「ジャコバン党員」の第1作がプラハ国民劇場で初演され、大好評。 ●ロシア音楽協会の招待を受け、モスクワとペテルブルクに演奏旅行。 ●プラハ音楽院から申し出された教授職を拒否。 ●3月3日、ドレスデンで交響曲第5番ヘ長調を指揮。 ●6月17日、ウィーンにおいて、皇帝から「オーストリア三等鉄王冠章」の勲章を授かる ●10月28日、ベルリンでフォン・ビューローの指揮の交響曲第7番の演奏に立ち合う。 ●12月9日、ウィーンで、フランツ・ヨーゼフ皇帝に謁見。ブラームスとの再会。 ●「詩的な音画」(Op.85)、ピアノ四重奏曲変ホ長調(Op.87)、 交響曲第8番ト長調(Op.88)等を作曲。 |
リヒャルト・シュトラウス「ドンファン」作曲 パリ万博で東洋音楽紹介 バーナードショー:「スター」誌の音楽批評家になる 明治憲法発令 |
1890 | 49歳 | ●2月と3月に、モスクワトペテルブルクで開催される演奏会のためロシアを訪問。 ●4月に第6回目のイギリス訪問を行い、交響曲第8番を演奏する。 ●チェコ芸術科学アカデミーの会員に推挙される。 ●出版人ジムロックと決裂。 ●秋にはプラハ音楽院の教授職を受諾する。 ●「レクイエム」(Op.89)を完成。「ドゥムキー」(Op.90)に着手。 ●11月7日、フランクフルトで、序曲「フス教徒」および交響曲第8番を指揮する。 |
マスカーニ「カヴァレリア・ルスチカーナ」初演 チャイコフスキー「眠りの森の美女」作曲 フランク没 67歳 |
1891 | 50歳 | ●元旦に、プラハ音楽院の作曲・管弦楽法・形式の教授に就任する。 ●1月、プラハ音楽院で授業を開始。 ●2月、ピアノ三重奏曲第4番「ドゥムキー」(Op.90)を完成させる。 ●3月17日、プラハ大学の名誉博士号を授与。 ●6月、ケンブリッジ大学より名誉博士号授与のため、7度目のイギリス訪問を行う。 ●6月初旬、ニューヨーク・ナショナル音楽院の校長職の依頼を受ける。 ●10月、ロンドンでの演奏会とバーミンガムでの「レクイエム」初演のため8回目の訪問。 ●12月、ニューヨーク・ナショナル音楽院との契約書に署名。 ●演奏会用序曲「自然のなかで」(Op.91),「謝肉祭」(Op.92),「オセロ」(Op.93)を作曲 ●ボヘミア各地をめぐるお別れの演奏旅行のために、ピアノ伴奏つきチェロのための 「ロンド ト短調」(Op.94)を作曲。 ●「スラヴ舞曲集 第1集」(Op.46)の第8番、および 「シュマヴァの森より」(Op.68)から第5番「森の静けさ」を改訂。 |
ドリーブ没 54歳 シカゴ交響楽団創設 フランス~ロシア協約締結 コナン・ドイル:シャロック・ホームズの冒険 執筆 |
1892 | 51歳 | ●1~5月、ボヘミアを演奏旅行。「ディミトリー」がこれまで以上に注目を集める。 ●6~7月、ニューヨークでのコロンブス祭のために考案されたという「テ・デウム」 (Op.103)をボヘミアで完成させ、さらに8月にカンタータ「アメリカの旗」(Op.102) のスケッチに着手したのち、9月にニューヨークへ出航する。 ●ニューヨーク・ナショナル音楽院の校長に就任。 ●10月、ナショナル音楽院での教育の仕事を開始。 |
レオンカヴァレロ「道化師」初演 チャイコフスキー「くるみ割り人形」作曲 ラロ没 69歳 |
1893 | 52歳 | ●ベルリン芸術アカデミーの会員に任命される。 ●カンタータ「アメリカの旗」を管弦楽化した後、 1~5月にかけて交響曲第9番「新世界より」(Op.95)を作曲。 ●5月21日、「ニューヨーク・ヘラルド」紙がドヴォルザークの論文「黒人の旋律の真の 価値」を発表。 ●チェコ人入植地アイオワ州スピルヴィルで夏の休暇を過ごす。 同地で、弦楽四重奏曲第12番ヘ長調(Op.96)、弦楽五重奏曲変ホ長調(Op.97)を作曲。 ●シカゴ万国博覧会を指揮するために訪問。 ●11月~12月にかけて、ドヴォルザークの子供たちに献呈されたヴァイオリンとピアノ のための「ソナチネ」(Op.100)を作曲。 ●12月16日、A.ザイドル指揮、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団による 交響曲第9番「新世界より」の初演が大成功をおさめる。 |
チャイコフスキー「交響曲第6番 悲愴」完成の後、 チャイコフスキー没 53歳 キューリー夫妻:ラジウム発見 |
1894 | 53歳 | ●2月、「ピアノのための組曲イ長調」(Op.98)を作曲した後 3月5日~26日にかけて「(10の)聖書の歌」(Op.99)を作曲。 ●ナショナル音楽院はもはやドヴォルザークに報酬を支払う様態になかったが、 4月、滞在契約をさらに2年延長する。 ●4月18日、ニューヨーク・フィルハーモニー楽団の名誉会員に推挙される。 ●ボヘミアで夏の休暇を過ごす。 ●8月、ボヘミアにて「ユーモレスク」(Op.101)を作曲。 ●10月にニューヨークに戻り、11月 チェロ協奏曲ロ短調(Op.104)に着手する。 ●3月、父フランティシェックが亡くなる。 |
ドビュッシー「牧神の午後への 前奏曲」完成 シャブリエ没 53歳 フォン・ビューロー没 64歳 |
1895 | 54歳 | ●2月9日、チェロ協奏曲ロ短調(Op.104)を完成。 ●2月16日、ウィーンの学友協会名誉会員み推挙される。 ●4月末、予定をくりあげて、ニューヨークより帰国。 ●8月、ジャネット・サーバー夫人に、アメリカに戻る意志のないことを告げる。 ●ニューヨークでドボルザークの論文「アメリカの音楽(Music in Amerika)が、 ハーバーの新月刊マガジンに掲載される。 ●11月1日、再びプラハ音楽院にて教鞭をとる。 ●弦楽四重奏曲第13番ト長調(Op.106)、弦楽四重奏曲14番変イ長調(Op.105)を作曲。 |
マーラー「交響曲第2番」初演 リヒャルト・シュトラウス 「ティル・オイレンシュピーゲル の愉快ないたずら」作曲 メルボルン音楽院設立 |
1896 | 55歳 | ●2月16日、ウィーンでハンス・リヒターの指揮により、交響曲第9番「新世界より」が 演奏され、熱狂的な賞賛を浴びる。 ●3月に第9度目のイギリス訪問を果たし、 19日にロンドンでチェロ協奏曲ロ短調を自らの指揮で初演する。 ●1~4月にかけて管弦楽のための交響詩「水の精」(Op.107)、「真昼の魔女」(Po.108)、 および「金の紡ぎ車」(Op.109)を作曲する。 ●3月末、ウィーンのブラームスとブルックナーを訪ねる。 ●6月3日、交響詩Op.107~109を私的な演奏会で初演する。 ●10~11月、第4番目の交響詩「野鳩」(Op.110)を作曲する。 |
プッチーニ「ボエーム」初演 アルベニス「歌劇 ペビタ・ヒ メネス」作曲 ショーソン「ヴァイオリンとオーケストラのための<詩>作曲 ブルックナー没 72歳 クララ・シューマン没 76歳 |
1897 | 56歳 | ●3月初め、ウィーンで重病のブラームスを見舞うが、4月に逝去。松明持で葬儀に参列。 ●6月初め、サーバー夫人から、ナショナル音楽院に対する契約更新の問合せを受ける。 J.トラギー博士の助言に従い、ドヴォルザークはその申し出を拒否。 ●7月、オーストリア国家奨学金の審査員に推挙される。 ●8月~10月、交響詩「英雄の歌」(Op.111)を作曲。 ●10月19日、ライプツィヒの演奏会で、ブラームスを追悼してチェロ協奏曲ロ短調を指揮 |
ラフマニノフ「交響曲第1番」 初演 マーラー:ウィーン宮廷歌劇場 音楽監督に就任 ブラームス没 63歳 |
1898 | 57歳 | ●5月5日、喜歌劇「悪魔とカーチャ」(Op.112)に着手する。 ●11月17日、銀婚式を迎えると共に作曲家ヨゼフ・スークと娘のオーティーリエが結婚。 ●11月25日、オーストリア政府から芸術科学名誉勲章を授与される。 ●12月4日、ウィーンでグスタフ・マーラーの指揮で、交響詩「英雄の歌」を初演。 |
ギュスタヴ・シャルパンティエ 歌劇「ルイーズ」初演 |
1899 | 58歳 | ●2月末、喜歌劇「悪魔とカーチャ」(Op.112)が完成し、 ●11月23日、プラハ国民劇場で初演される。 ●11月13日、ベルリンでA.ニキシュの指揮で、交響詩「英雄の歌」が演奏される。 ●12月20日、ブタペストで、交響詩「英雄の歌」とチェロ協奏曲ロ短調を指揮する。 |
シェーンベルク「浄められた夜」 ラヴェル「亡き王女のためのパバ ーヌ」作曲 ショーソン没 66歳 ヨハン・シュトラウス2世没 73 |
1900 | 59歳 | ●4月4日、プラハで開催された演奏会で、シューベルト、ベートーヴェン、ブラームスの 作品および交響詩「野鳩」を指揮し、指揮者として最後の公演を行う。 ●4月21日、オペラ「ルサルカ」(Op.114)に着手し、11月27日に完成。 ●4月に、合唱と管弦楽のための「祝祭の歌」(Op.113)を作曲。 |
ドビュッシー「夜想曲」作曲 プッチーニ「トスカ」作曲 サリヴァン没 58歳 フィビヒ没 49歳 |
1901 | 60歳 | ●3月31日、オペラ「ルサルカ」がプラハの国立劇場で初演され大成功をおさめる。 ●4月、ウィーンでオーストリア貴族院議員に推挙される。 ●7月、プラハ音楽院の院長に就任。 ●11月、ドヴォルザークの還暦を祝う式典と演奏会を開催。 |
ラフマニノフ「ピアノ協奏曲 第2番」作曲 ベルディ没 87歳 ノーベル賞創設 |
1902 | 61歳 | ●3月11日、最後のオペラ「アルミダ」(Op.115)に着手。 |
シベリウス「交響曲第2番」 マーラー「交響曲第5番」 |
1903 | 62歳 | ●3月末、プラハで2~3の指揮をしていたグリーグと出会う。 ●8月23日、オペラ「アルミダ」(Op.115)を完成。 |
シェーンベルク「ペレアスとメ リザンド」作曲 ヴォルフ没 42歳 |
1904 | ー | ●3月25日、発作のため、国民劇場での「アルミダ」の初演を放棄する。 ●5月1日、脳出血で、62歳の生涯を終える。 ●5月5日、ヴィシェフラットの墓地に埋葬。 |
プッチーニ「蝶々夫人」初演 ヤナーチェク「イェヌーファ」 初演 |
※本年譜は、内藤久子著「ドヴォルジャーク」の年表をベースとしており、その他の文献を参考に修正、追加をしてまとめたものです。