いかにして「ドヴォルザーク」を好きになったか

クラシック音楽を聴き始めたころは、ドヴォルザークは多くの作曲家の中の一人として捉えており、特別な感情はなかった。

ドヴォルザークの最初に(1961年頃?)購入したレコードは、交響曲第9番「新世界より」で、イシュトヴァン・ケルテス指揮ウィーンフィルハーモニー管弦楽団演
 奏で楽譜付きの豪華ジャケットのものだった。当時、指揮・演奏の素晴らしさ(ビビッドでカラフルの評価)と録音がたいへん良いこと(英デッカ製作のマルチ録音方
 式採用)でも話題になった。  関連→在職中に、労働組合の機関紙に投稿した(書かされた)「私と名曲鑑賞」にケルテスの記事がある。

この交響曲は、第2楽章のテーマに詞を付けて「家路」のタイトルで歌われている程度の知識しかなく、しかも「遠き山に日は落ちて・・・」の詞はなぜか好みではな
 く、そのため、メロディ自体も大好きという程のものでななかった(但し、後になって他の人が作詞した曲を聴いて、今ではこの名旋律が大好きになっている)。

何度も聴く内にこの交響曲全体の凄さがわかってきて、感動するようになった。
 もっとも、この交響曲は全楽章が親しみやすいメロディで溢れており誰でも好きになるという、クラシック音楽でも特にポピュラーなものだと知る。

次に聴いたのは、交響曲第8番で「イギリス」といった副題が付いていた。単にイギリスの楽譜出版社から楽譜を発行されたというだけのもので、今では副題は付いて
 いない(これには特別な経緯があるので別項で説明する予定)。演奏は、同じ指揮者(ケルテス)でロンドン交響楽団の演奏だった。

この曲は、第3楽章のメロディが美しく、弟は良く知っていたが、私は初めて聴く交響曲だった。この交響曲も明快なメロディのおかげですぐに好きになった。但し、
 第2楽章は詩情豊かな音画といったもので、この内的な美しさが分かるのに少し時間を要したが、ドヴォルザークの魅力が最大に発揮された非常に美しい楽章である。

このLPレコードには、交響曲第8番の他に、ドヴォルザークの「スケルツォ・カプリチオーソ」という管弦楽曲も併録されていた。これも、美しいメロディと迫力あ
 る曲で圧倒されてしまった

さらに、管弦楽曲で「スラヴ舞曲集」全曲演奏のLPレコードを聴いた。指揮者はアンタール・ドラティのミネアポリス交響楽団演奏のもので、A面に第1集(8曲)、
 B面に第2集(8曲)と、計1時間の収録でたいへん聴き応えがある。全16曲珠玉のメロディの宝庫といったもので、随分と好んで聴いた。ただし、楽団員がドラティ
 の速い指揮について行けないところがあり、評論家からは「韋駄天ドラティ」と言われ、演奏の評判は今一だった。これは、管弦楽団の未熟さが目立った演奏で、ず
 と後で、ドラティが他の楽団(ロイヤル・フィル)と同曲を再録音しているが、これは名演奏の誉れ高いものだった。

徐々にドヴォルザークの虜になっていき、有ろうことか発売されて間もない、ケルテス指揮・ロンドン交響楽団演奏の交響曲全集(第1番~第9番)を購入してしまっ
 た(1968年頃?)。この時期は、ドヴォルザークの交響曲は第7~9番が定盤になっており、ようやく第6番が認知され始めた頃で、初期の交響曲など聴いてどうす
 るのと言った声が聞こえてきてもおかしくない状況にあった。
 結果は、購入して大変良かったという優れもので、初期の交響曲はどれも覇気に満ち、メロディも親しみやすく、独特の魅力(後で説明)があり何度も、何度も聴いた。

 交響曲9番「新世界より」は、前述のウィーン・フルハーモニーのものを聴きなれていたので、若干色彩感に劣る印象はあるが、安定感ある名演だと思う(ケルテス指
 揮ウィーン・フィル演奏の方は、綺羅星の如くある名演奏の中で、現在でもトップを争う程の人気がある)。
 また、第9番の第一楽章で曲の繰り返し部分を省略して演奏するのが普通になっているが、この全集のロンドン交響楽団の演奏は省略せずに行っているのが嬉しい。
 
ここまで書くと、ドヴォルザークばかり聴いていると思われるが、同時に、ブラームスの交響曲第1番、シベリウスの交響曲5番、ベートーヴェンの交響曲第5番、ブ
 ルックナーの交響曲第7番、マーラーの交響曲第1番、モーツァルトの交響曲第40番、チャイコフスキーの交響曲第6番など、プロコフィエフ交響曲第5番、
 シューベルトの歌曲「冬の旅」、その他多くの音楽を聴いて来た。 詳細は、→「クラシック音楽大好き」に記載する。

特に、クラシック音楽を聴き始めた頃は、チャイコフスキーの3大バレエ音楽(白鳥の湖、眠りの森の美女、くるみ割り人形)を聴くに及び、メロディの美しさ親しみ
 やすさに感激すると共に、交響曲も第4番、第5番、第6番も良く聴いた。ロシア的な憂愁を帯びたメロディと迫力ある金管楽器の咆哮など、聴くものを興奮させる音
 楽によって、一時期はチャイコフスキーに陶酔していた。
 その後、チャイコフスキーとは、少し距離を置くようになっていった(「クラシック音楽大好き」で説明する)。

ドヴォルザークに戻り、究極は1991年のドヴォルザーク生誕150年を記念してコロムビア(国内)から発売された大全集(CD50枚組)を購入したこと。現在では廃
 盤になっており貴重な全集となっている。また、豪華な解説本が付いており、ドヴォルザークのことが良く分かる価値ある参考資料となっている。

この大全集のおかげで、普段は聴くことが出来ないピアノ曲や宗教音楽、歌曲などの多くの声楽曲を聴くことができた。また、室内楽曲や管弦楽曲も初めて聴くものば
 かりで、作品のボリュームに圧倒されてしまう。この詳細は、「ドヴォルザークの作品」のところで書いてみる。

ドヴォルザークの音楽は、悲しい作品(例えば、スターバト・マーテル)であってもそのメロディはリリカルな世界に包まれており、聴き終わった後は、幸福感に似た
 感動を与えてくれる。

 大全集で色んな作品を聴いてみたが、ドヴォルザークの作品が心を打つのは、メロディの天才であるだけでなく、オーケストレーションの天才であるとの思いが止まな
 い。他人からは、アバタもエクボ(あまり良いたとえではないが)を実践しているだけだよと言われそう(それも多少あるかも)だが、数十年間クラシック音楽を聴いて きて、少しは客観的に判断できるようになった現在でもドヴォルザークへの想いは変わず、益々強くなっている。

次に、タイトルを変更し、著名人が書いたドヴォルザークへの賛否を基に考えてきたことを述べてみたい。→「吉田秀和氏とドヴォルザーク」