ドヴォルザークのどこがすごいのか

ドヴォルザークのどこがすごいのか
  
 吉田秀和氏の著書「私の好きな曲」からの引用させてもらいました(ドヴォルジャーク→ドヴォルザークに統一)

●ドヴォルザークは、数ある十九世紀国民楽派の音楽家たちのなかでも、本源的な、あるいは、素朴な意味での「音楽的」という点で、抜群の人だった、と思う。

●このボヘミアの田舎の貧しい肉屋の息子は、両親からほかになんの財産も与えられなくとも、音楽というものをいっぱいもって、世の中に生まれてきたのだった。

●いわゆる「音楽性の豊かさ」、自分のなかから自然に湧いてくるものを素直に出せば、それでもう音楽になっている。

●しかも、自分の心を正確に表現するだけでなくて、多くの人々を喜ばせ、楽しませる音楽になっている。
 そういう意味では、この人は天才を与えられて生まれてきた。

●ドヴォルザークは、シューベルトに劣らず、美しい旋律の発明の天賦をもっていて、数えきれないほど、すばらしい旋律を世の中に贈った。

彼の作品は、みんな、それを証拠立てている。九つある交響曲も(渡辺:全曲を対象にしているが、吉田秀和氏はクーベリック指揮の交響曲全集をもっており、これを
 聴いてのことと思う)、「スラヴ舞曲」その他の管弦楽曲も、

あの匹敵するもののない豊かさと自然性、力強さと明るさをもっているすばらしい「チェロ協奏曲」も、

●それからたくさんの室内楽曲も、それから「ジプシーの歌」以下の宝石のような輝きをもっていて、しかも、それを歌い、それを聴く人の心の飾りにはなっても、自分
 自身はちっとも飾ったり澄ましたりした作為のない歌曲たちも、

●それから、「レクイエム」「スターバトマーテル」のようなまったく独特な真実味をそなえた大規模な宗教的声楽曲も、そのほか、いろいろな種類の楽器の組み合わせ
 による詩的な小品たち。(渡辺:要は全作品がすばらしいと言っている)。

●まず、その旋律のすぐれて音楽的なことで、私たちをひきつけないものはない。
 それにここには、何か無尽蔵に豊かな天賦、汲んでも汲んでも汲みつくせないところから生まれてくるものの匂いがある。

●個人の天分によるものであると同じくらい、その個人を越えた、あるいはその個人の根差しているところの大きな「自然」の発露であり、そこから流れ出てくる清らか
 な水のような、そういう趣がある。 私には、あくまで大地が生んだ音楽、大地がかきならす生き生きとした楽の音としてある。

●同じ十九世紀の国民楽派、民族主義音楽といっても、ドヴォルザークは、たとえば、ロシアの天才たちとは、まるでちがう。チャイコフスキーの感傷性、自己憐憫はこ
 こにはまったくない。
 ドヴォルザークが、自分にないものにあこがれ「ここでさえよければ、どこでもよい」という逃避の叫びをあげている図など、想像することもできない(渡辺:チャイ
 コフスキーのことを言っている?)。

●また、ムソルグスキーの骨身をけずるような刻苦のあとは、ここにはない。
 要するに、このボヘミア人の体内には、同じスラヴといっても、ロシアの天才たちの求めて苦悩を親しむ生き方とか苦難者、殉教者としての素質とかの血は流れていな
 い(渡辺:要は天然だと?)。

●チェコスロヴァキア(当時)は、ヨーロッパの中心部に位置し、穏やかな平原の国であり美しい河があり、森があり、牧歌的な国であるような気がする。また、チェコ
 の首府プラハのまちは、ヨーロッパ中でも最も由緒ある美しい都会の一つである。
 
●ドヴォルザークの音楽にも、私は、一方で大自然からまっすぐに生まれて来た爽やかで生き生きとした大地の味わいを感じとるとともに、それがけっして重苦しい暗い
 もの、あるいは荒らしい野性的なものにならない。あくまでも人間的な節度も感触を失ったことがないのをききとるのである。

の音楽には自然のもっているやさしさ、調和、行き過ぎへの抑制が、いつも裏付けとしてある。


 以上、長々と文章を引用してしまったが、全く私が感じている内容そのものなので、私が語るよりは、吉田秀和氏の文学的な表現で語って頂き、すこしでも客観的にとの理由で。
それにしても、吉田秀和氏のドヴォルザークへの想い入れがこれほど強いものだとは思わなかった。
私の思い違いがあったのかも知れないが、吉田秀和氏がドヴォルザークを通俗作曲家と評価していたものと解釈していたが、天才作曲家だと評価しているので、私としては感涙ものだった。

このあとに、大好きだという交響曲第8番についての解説があり(こちらがメインである)、いままでの記述を上回るほどの賛辞で書かれているが、こちらは、別項で取り上げたい。

後になって、「名曲300選」(チェロ協奏曲のみ推薦)に、交響曲第7番と第8番が、索引の部分に注記で追加されていたのを店頭で見ている。