私のクラシック音楽への足跡~その2(11)

コンサートで出会った演奏家たち

(11) 中村紘子 ピアノコンサート  

コンサートで出会った演奏家たちも、だんだん記憶から消えてしまっている。
一旦ここで、このコーナーに区切りをつけたいと思う。

最後になったが、中村紘子を忘れていたというか、一番目に書くべき人かもしれない。
クラシック音楽を聴くようになって、最初に覚えた日本人ピアニストが中村紘子だったと思う。
1965年ショパン国際ピアノコンクールで、日本人として、10年ぶりに入賞したことで、
暫くは、日本のピアニストの代表として君臨していた(1955年に田中希代子が入賞している)。

一度コンサートに行っているのだが、いつ、どこで、何を・・・思い出せない。
それほど昔だったということもあるが、若かったので演奏の良し悪しもわからず、ショパンのピアノ協奏曲も退屈してしまうほどの音楽的未熟者だった
ということが原因で記憶から飛んでしまったものと思う。
また、最近まで、中村紘子は興味の対象では無くなっており、むしろ避けるようになっていたことも忘れ去ったことの一因でしょう。

なぜ中村紘子を避けるようになったかは、後記する(今は、わだかまりが無くなったので、敢えて書かなくてもよいとは思うが・・・書きます)。
もちろん、中村紘子は、今でいえばアイドルであり、そのことでクラシック音楽を広めた功績には敬意を払わなければならない。

私も、一時期は下記に示すように、CDを購入したり、上梓した本は殆ど読んでいるといったほど、中村紘子に傾注していた。

 

中村紘子  1944年7月25日生~2016年7月26日没(72歳)

【プロフィール】 1944年7月25日生~2016年7月26日没(72歳)

3歳で、桐朋学園音楽科の前身となった『子供の為の音楽教室』第一回生として井口愛子氏に師事。
10歳からレオニード・コハンスキー氏に学ぶ。早くから天才少女として名高く、全日本学生音楽コンクールの小学生部門、中学生部門と優勝を重ねたのち、
慶応義塾中等部3年在学中に、第28回音楽コンクールにおいて史上最年少で第1位特賞を受賞。
ただちに翌年、NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢され華やかにデビューした。

その後、ジュリアード音楽院で日本人初の全額奨学金を獲得、ロジーナ・レヴィン女史に師事。第7回ショパン・コンクールで日本人初の入賞と併せて最年少者賞を受賞。
以後今日に至るまで、中村紘子の名は日本のピアニストの代名詞となり、その演奏は国内外3800回を越える演奏会を通じて聴衆を魅了し続けた。

 その演奏ぶりについては既に余りにも多くが語られているが、20世紀最高の音楽批評家の一人とされるハロルド・ショーンバーグ(ピューリッツァー賞受賞)は、
そのピアニストに関する代表的な名著『偉大なピアニストたち』(「The Great Pianists」Random House 1987)の中で東洋人ピアニストとしてただ一人中村紘子の名を挙げ、
その特色を「絢爛たる技巧」と「溢れる情感」そして特に「ロマンティックな音楽への親和力(affinity)」にあると評した。
事実、彼女の繊細なリリシズムと激情のダイナミズムを兼ね備えた天性をもし「ロマンティック」と形容するなら、その一種デモーニッシュなまでの「親和力」こそ、
聴き手の魂をかくも惹きつける中村紘子の魅力の秘密であろう。

 「今夜の幕開けとなったショパンの演奏では、現在世界的ピアニストとして注目される日本人ピアニスト中村紘子が、圧倒的スターとして輝いた。
豊かな個性と感性と知性のぎりぎりの極限に身をおいた深い表現に溢れた演奏は、満場の聴衆を感動させた」(ジョルナーレ・ディ・シチリア紙)。
「ピアニストは鍵盤から紡ぎ出すビロードのような柔らかい音色と、時には繊細なキータッチで或いはインパクトのある力強い音で、
やがて夢の中に溶けてゆくようなメロディを創りあげている。この演奏は熱烈な拍手によって迎えられた。
またこの演奏のおかげで我々は、古典的な音楽の中にも現代の我々の好みを見つけ出せることが分かったのである。
ピアノの音色は水晶のように澄み切って響き渡り、あたかも我々をショパンの時代に呼び戻してくれているのか、或いはショパンが現代の我々のもとに現われて語りかけて
くれているのか...、そんな"時"を超越した空気を醸し出していた」(ラ・シチリア紙)と、これは2002年イタリアのベッリーニ劇場に招かれて、
ショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏した際の賛辞であるが、ショーンバーグ以来定評となった中村紘子の演奏ぶりを伝える一例である。

 演奏会に加えてレコーディングも活発で、1968年ソニー・レコードの専属第1号アーティストになって以来リリースされた50点近い録音は、
クラシックとしてはすべて桁外れの売れ行きを示している。
2009年9月にはデビュー50周年記念のボックスCDが完成。ベルリンのテルデックス・スタジオのスタッフと組んで、2年間で10枚のCDを一挙に録音した画期的なもので、
「たったいまの中村紘子を聴いてもらいたい」という、中村紘子の夢のこもった新アルバムであり、レコード芸術誌の第47回「レコード・アカデミー賞」
(特別部門企画・制作)を受賞した。


 また1982年、チャイコフスキー・コンクールの審査員をつとめて以来、ショパン、ロン・ティボー、ヴァン・クライバーン、リーズ、ダブリン、ブゾーニ、シドニー、
パロマ・オシア、北京、上海など数多くの国際コンクールの審査員を歴任し、その体験に基づく最初の著書『チャイコフスキー・コンクール 〜ピアニストが聴く現代〜』
(中央公論新社刊)は、文明論としても高く評価され第20回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
続く第2作『ピアニストという蛮族がいる』(文藝春秋刊)も文藝春秋読者賞を受けるなど、「文武両道」のスーパーレディぶりは名高い。


 2003年、<NHKTV人間講座>で8回にわたって講演した『国際コンクールの光と影』も、国際ピアノコンクールの歴史と現在を語るだけでなく、
21世紀の「豊かな社会」「情報化社会」におけるクラシック音楽の未来を洞察した文明論として好評を博し、この講座をもとにした著書『コンクールでお会いしましょう
 〜名演に飽きた時代の原点〜』(中央公論新社刊)も話題作となった。


 近年は、広く国内外の若手ピアニストの育成や紹介に努め、1994年から15年間にわたって浜松国際ピアノコンクールの審査委員長として活躍。
多くの俊英ピアニストを世に送り出すとともに、浜松国際ピアノコンクールを世界的権威のあるものに育成し、「世界のハママツ」の名を確立した。
また、「難民を助ける会」や日本赤十字などを通じてのヴォランティア活動にも積極的な役割を果たし、日本における「対人地雷廃絶」運動ではその先頭に立った。


 その長年の活動に対しては、日本芸術院賞・恩賜賞、紫綬褒章を初めとして、NHK放送文化賞、N響有馬賞、エクソンモービル音楽賞などを受賞。
加えて、アルトゥール・ルービンシュタイン・ゴールドメダル、ポーランド共和国コマンダリー勲章、ポーランド共和国文化勲章「グロリア・アルティス」ゴールドメダル
などピアニストとしての国際的受賞も多く、その活躍に対して外務大臣表彰を受けている。
また前述の大宅壮一ノンフィクション賞、文藝春秋読者賞などの文学賞や、ダイヤモンド・パーソナリティ賞、ダイアモンド・レディ賞といった音楽賞以外の受賞も多い。

2009年のデビュー50周年では、80回を越える「デビュー50周年記念コンサート」を行った。

2014年のシーズンにはデビュー55周年を迎え、全国各地でのリサイタルやオーケストラとの共演の他、9月にはデビュー55周年記念CDをリリース。

以上、公式ホームページhttp://nakamurahiroko.com プロフィールより転記(生前の記事である)

晩年 Wikipediaより転記

2014年、腸閉塞の腹腔鏡手術を受けた際に、大腸がんが見つかる。治療を続け、2015年3月に復帰した。
2015年8月、大腸がん治療に専念するため、再び演奏活動を休止。当初は11月以降の復帰を目指していたが、2016年3月まで活動休止が延長された。
2016年4月30日ミューザ川崎シンフォニーホールおよび同年5月4日オリンパスホール八王子で開催されたコンサートで復帰した。
この最後のライブ録音はCD「中村紘子 フォーエバー」となって発売された。2016年7月26日、大腸がんのため永眠。
72歳没。72歳の誕生日を、夫と自宅で祝った翌日だった。
夫によれば、中村が死去前日にもモーツァルトからラフマニノフまでの曲の音色に新しい輝きを出す奏法を試したいと興奮して語っていたという。
旭日中綬章追贈。
2016年9月12日にお別れ会がサントリーホールの大ホールで関係者約850名が出席して執り行われ、その中で東京交響楽団等による献奏も行われた。

 

【聴いたCD】

(1)ショパン ピアノ協奏曲第1番 & 第2番


中村紘子の最初に購入した、代表的なCD

クラシック音楽を聴き始めた頃は、交響曲の魅力に取り付かれていた
こともあり、このショパンのピアノ協奏曲を聴いた当時の感想は、
曲のメロディーは美しいものだが、それ以上の感銘を受けることは
なく、従って演奏も感動するものではなかった。

但し、今ではこの2曲の協奏曲は大好きです。他の作曲家では成し
得ない美しい曲であり、それだけで十分です。

しかし、ショパンのピアノ曲を多数の演奏家で聴いて来た今では、
このCDから中村紘子のエッセンスを聴き取るには、更なる聴き込み
が必要であります。

 

(2)中村紘子 「フォーエバー」 モーツァルト/ピアノ協奏曲第24番 <追悼アルバム>

 

(3)モーツァルト ピアノ協奏曲第24番&第26番「戴冠式」&マズルカ集 <デビュー55周年記念アルバム> 2014年


※ この<デビュー55周年記念アルバム>の モーツァルト ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」のカデンツァは、「新垣隆」に依頼し、書き下ろされた話題

モーツァルトのピアノ協奏曲第26番「戴冠式」は、カデンツァの作曲に、『交響曲HARIKOMI』など話題となった新垣隆。
そしてブザンソン国際コンクールで佐渡 裕以来、20年ぶりの日本人優勝を果たした山田和樹を指揮に迎える。
オーケストラは、山田が東京藝術大学在学中に有志で結成した横浜シンフォニエッタが演奏し、
日本クラシック界の若手精鋭陣をベテランの中村紘子が牽引するかたちとなる。

              

 

【中村紘子のこんな本を読みました】

1992年 1995年 2000年 2010年 2020年



       


























 

 【中村紘子の性格が混乱を招く】   

 17歳でデビューし、21歳でショパン国際コンクール入賞を果たし、以後、日本を代表とするするピアニストとしてマスコミに登場してきた。私も、
スターの中村紘子の存在を注目してきました。
その当時の私の印象は、あまり良いものではありませんでした。

 クラシック界のアイドル的存在だったことで、ショパン国際コンクールの入賞者という優れた人ではありますが、何か人気が演奏技術を上回っているような
感じがしました。また、テレビや雑誌での中村紘子の発言が、大スターといった人たちが、大なり小なりに持っている自尊心にみられるもので「気位が高い、
尊大、わがまま」といったものを感じたからです。

      これの説明に2頁ほどの内容を書いてみましたが、今ではどうでもよいかな、と考えが変わり登載をやめました。
       肯定的にみれば、直接的で、屈託なく、正直なひと、と捉えることもできます。
      そもそも芸術家に、性格がどうのこうのと言っている方が間違っているという人もおります。

 しかし、私としては、ずっと中村紘子を遠ざけてきた最大の理由があり、それは無視できない出来事でありました。

 発端は、ピアニスト特集の本(この購入本がなぜか今手元にないため、説得力に欠けますが)で、中村紘子が次のように語っていました。“同じスラブ系と
いっても、ラフマニノフは好きだけれど、ドヴォルダークはちょっと・・・(好きではないニュアンス)”と全国誌といえる本の中で述べてしまった。

 私が、何回も言っていますが、人の好みは自由であり、ドヴォルザークを嫌いと言われても 、誹謗、中傷を意図していない限り、その人を間違っているとは
言いません。普通はここで、話が終わりですが、その続きが問題なのです。

 私の中で、まだ憤慨?拘泥?の火種が燻っていた時期に、中村紘子がテレビに登場し、カレーのCMをやっていた。何気なく見ていたが、そのCMのバック
に流れていたメロディは、中村紘子が演奏した「ドヴォルザークのピアノ五重奏曲イ長調」だった。一瞬耳を疑ってしまった。ドヴォルザークはイヤだと言っ
ていたはずです。
これが、何年も後の出来事ならば、ドヴォルザークが好きになったので弾きました、となりますが、まだ本を読んだばかりの私には聞き捨てならない出来事で
した。

 多分、このピアノ五重奏曲は人気のある作品なので、レコード会社からの要求で録音
したものと思う。このCDは1988年CBSソニーから発売されたもので、
このCDの紹介も兼ねてカレーのCMで流したものと考えます。
中村紘子が好んで演奏したわけではないのかもしれないなどと思ってしまいます。

好きな作曲家でないと言っているので、良い演奏であるはずがないでしょう。
これが原因で、中村紘子を無視することを決めたのです。

 

 

ついでながら、この曲は私の大好きな作品で、ピアノ五重奏曲イ長調と弦楽五重奏曲第3番のベストカップリング(ベルリン・フィル八重奏団員)のCDを
所有していますが、両曲とも最高に気に入っている演奏です。下のCDジャケットは、私の愛聴盤です。

 

 

【その後の中村紘子について】

 中村紘子には、もちろん最後まで無視を続けていたわけではありません。その後に本人が上梓されたエッセー本を数冊読破していますし、中村紘子を扱った
雑誌等の記事には着目をしてきました。
 たまたま、店頭で、中村紘子著「チャイコフスキーコンクール」の本を見つけました。
帯には、「本年度 大宅壮一ノンフィクション賞受賞~ピアノの最前線で描く音楽の現状と未来、熱いトキュメント」と書かれていた。中村紘子を知るにはこれを買わなくては!と思い購入して読みました。内容については長くなるので書きませんが面白かったです。その後、発売された著作本も読むようになりました。

演奏家が書いた本は、別に珍しくなく、私も随分読んで来ております。これは、別のコーナーでまとめて書く予定です。

 中村紘子のエッセーの内容が充実していることから、読者が増えたかわりに、ゴーストライターがいるといった噂も耳にするようになりました。
これは、夫君が、芥川賞作家の「庄司薫」だということから取り沙汰されたもの。
夫婦で有れば、作家の夫が妻の文章をまったく見ないというのは考えられないでしょう。
そうすると、どこまで手助けしているかが問題となります。私も、一時はそのように思ったことはありました。

 しかし、色々と中村紘子のインタビューなどの記事を雑誌等で読んできましたが、中村紘子はなかなか思慮深い人であり、たとえ、夫君に校正をお願いしていたとしてもノンフィクション作家として評価できる人だと思うようになりました。
このようなことで、音楽以外でありますが、中村紘子に対する印象が少しずつ良くなっていきました。

 さらに年代を経て、私が惹きつけられた出来事がありました。
中村紘子が、デビュー55周年の記念アルバム「モーツァルト ピアノ協奏曲第24番&第26番「戴冠式」/ショパン マズルカ集」をリリースしました。
このアルバムは、ピアノ協奏曲第26番のカデンツァの作曲を新垣隆氏に依頼して演奏したというトピックス付きで発売された。
この第26番は、曲が分かりやすいので一般的に人気があり、演奏機会も多いのですが、専門家の作品に対する評価は低いと言われています。左パート楽譜が
未完成で、出版時に他人によって補完されたものの、添物的であって価値は低いと言う。カデンツァもモーツアルトは書いていない。など、この協奏曲に
まつわる話は沢山出てきますが、ここで書く場所ではないのでこれ以上は止めます。

中村紘子が、なぜ自分でも創作可能なカデンツァを新垣隆に依頼したのか、私には興味深かったです。

新垣隆は、私が応援している「古典から前衛音楽まで」をこなす現代音楽の作曲家で、時の人です(長くなるので省略)。多分、発売するアルバムの話題作り
のため制作側が企画したものと考えます。
モーツァルトならば、もっと相応の有名な作曲家がいくらでもいると思うのですが、中村紘子の性格から考えて新垣隆でOKを出したことが意外に思いました
(ここも省略)。

中村紘子は、このデビュー50周年の2年後に亡くなられています。
多分、新垣隆の名前が出なかったら、この記念CDを購入することはなかったと思います(上図参照)。
それでも、最後に中村紘子を聴けたことは、やはり良かったと思っています。このCDは2枚組になっており、2枚目に得意のショパンのマズルカ集が収録さ
れていました。
演奏については、別のコーナーで記載する予定です。
中村紘子さんのご冥福をお祈りします。

 

中村紘子Wikipedia  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%B4%98%E5%AD%90

中村紘子 オフィシャルサイト  http://www.nakamurahiroko.com/

(参考)中村紘子 ピアノコレクション(CD9枚+DVD)発売 → PDF

 

追伸:応援している新垣隆に関する事由は、専用の頁で述べるつもりです。→ 新垣隆